1907 年の恐慌から 2021 年のパンデミックまで: 米連邦準備制度の顔ぶれと出来事

FXでの為替取引、株式や暗号資産による投資、金や原油のCFD取引をしたトレーダーなら、米連邦準備制度 (FRS)を耳にしたことがあるでしょう。 トレーダーがファンダメンタル分析ではなく、もっぱらテクニカル分析を好む場合でも計算やグラフの基礎はFRSの決定に左右されます。つまり、金融市場の世界的なトレンドや短期的なトレンドもこれによって作られたり、崩れたりします。では、米連邦準備制度の組織とはどのようなものなのでしょう?

金融恐慌の産物

米連邦準備制度(FRS) のルーツは、1886年に大富豪たちのあるグループがジョージア州にあるジキル島を購入してプライベートクラブを作った19世紀に遡ります。アスター家、ヴァンダービルト家、モルガン家、ピューリッツ家などの世界の富の6分の1を保有する一族がこの島で休暇を過ごしました。

クラブへの入会とこの島へのアクセスは、ごく限られた人たちだけでした。例えば、後のイギリスの首相、ウィンストン・チャーチルは入会を断られています。また、後のアメリカ大統領になったウィリアム・マッキンリーもこの非常に排他的で閉鎖的なクラブには入会することはできませんでした。

この頃の米国は、金融業に関する中央集権的な制度を設けることについて活発に議論されていました。これは、1873年から1907年にかけての米国を震撼させた4つの金融危機によって拍車がかかりました。当初、中央銀行設立の案は非常に否定的なものでした。しかし、"1907年恐慌" と知られる"金融恐慌" ですべてが変化しました。恐慌は大手銀行の一社の株式を買い占めようとしたことで全土に広がりました。ニューヨーク証券取引所が50%近く崩壊しただけでなく、銀行や企業の倒産も広がり失業者が増加しました。

先に述べたように、当時の米国では通貨流通を規制する中央銀行が存在しませんでした。そのため、政府は民間の銀行家、特にジキル島に住むJ.P.モルガン(J.P.モルガン銀行を知らない人はいないでしょう)に頼りました。モルガンは、主要金融機関を連帯させ、状況を安定させるために必要な資金を提供しました。面白いことに、モルガンは、この危機のきっかけである火付け役であり、火消し役でもあったとされています。

この出来事は、アメリカの金融システムに改革が必要であり、商業銀行の調整をして預金の流動性と安全性を確保する中央機関が必要であることを示しました。米国議会は、国の銀行システムの不安定性を調査することを任務とする国家通貨委員会を設立しました。1913年、中央銀行としての機能を果たす独立した連邦政府機関である連邦準備制度(FRS)を設立する法律が制定されました。

金融市場、外国為替、株式、または暗号通貨の取引に携わるすべての人にとって、米国の連邦準備制度とFOMCの歴史について学ぶことは興味深く、有益でしょう。

1913-1951: 成り立ち

当時、連邦準備制度(FRS)は、各総裁が率いる12の連邦銀行(FRBs)と米国大統領によって任命され上院によって承認された連邦準備制度理事会(FRS理事会)で構成されていました。FRS理事会はFRBの活動全般を指導、また、監督する責任がありました。また、FRBが商業銀行に融資する際の割引率の担当もしていました。一方、FRBは商業銀行に対する準備金の保有、銀行券の発行、政府証券や他の機関を対象とした公開市場操作、各地域の商業銀行の活動に対する規制や監督などの機能を担っていました。

大恐慌の1933年に銀行法の制定により、連邦預金保険制度が導入され、商業銀行による投資活動の禁止やFRSの権限が拡大されました。1935年には、別の法案が可決され、金融政策を策定する主要機関である連邦公開市場委員会(FOMC)が発足しました。この委員会には、証券公開市場操作の権限が与えられ、経済における通貨供給量と金利に影響を与えます。つまり、FOMCは米連邦準備制度理事会(FRB)が通貨流通と融資を規制するための重要な機関となりました。

現在、同委員会は連邦準備制度理事7名とFRBの総裁5名の投票権のある12名で構成されています。ニューヨーク連銀総裁はFOMCの常任メンバーであり、他の4名の総裁は毎年交代で任命されます。

1951年、連邦準備制度と米国財務省の間で財務連銀協定として知られる合意が成立しました。この合意書で連邦準備制度が金融政策に関して政府から完全に独立することになり、国債の固定利回りを支持しなくなりました。これにより連邦準備制度は経済の変化に対応してより柔軟に、物価の安定、経済成長、完全雇用、国際収支の安定という目標を達成するために独自の手段が使えるようになりました。

成果と失敗

連邦準備制度理事会は発足されて以来、16人の議長によって率いられ、それぞれが成功と失敗の歴史を歩んできました。この半世紀、委員会を率いた議長を見ていきましょう。

ポール・ボルカー: 連邦準備制度の措置が常に明らかに成功していたとは言えません。例えば、1979年、高いインフレ率と不況の中、ポール・ボルカー率いる連邦準備制度理事会は金融政策戦略を変更し、金利よりもマネーサプライの増加抑制に重点を移しました。結果、フェデラルファンドの金利は急騰、1981年には20%にもなりました。 この結果、1983年にインフレ率は3.2%に低下しましたが、深刻な不況、高い失業率、多くの銀行の経営難を招きました。

アラン・グリーンスパン: 1987年、アラン・グリーンスパンは、最も影響力のある任期の長い連邦準備制度理事会の議長の1人でした。同議長は、ソフトかつ柔軟な金融政策により、経済成長、低インフレ率、金融市場の安定に貢献しました。

グリーンスパンはまた、1987年の株価暴落、1998年のヘッジファンドのLTCM破綻、2000年のドットコムバブル崩壊、2001年9月11日の同時多発テロなどの数々の試練に直面してきました。多くの政治家や金融関係者によれば、これら全てに対して、グリーンスパンは決断力をもって、迅速に、利下げをおこない、流動性の供給、金融システムの支援で、経済への信頼を回復させました。グリーンスパンは2006年に退任して、ベン・バーナンキが後任となりました。

ベン・バーナンキは、経済学者であり、金融政策の歴史と理論、特に大恐慌の研究を専門とする教授でもあり、2007年から2009年にかけての世界金融危機の際に連邦準備制度理事会を率いらなければなりませんでした。この危機は、1930年以来、最も深刻で全世界の経済の崩壊させる恐れがありました。住宅ローン市場のバブル崩壊が引き金となり、経済と金融のあらゆる分野に波及しました。

バーナンキは崩壊を防ぎ、景気回復のためにあらゆる手段を駆使しました。バーナンキは量的緩和(QE)プログラムを導入させました。投資や消費を刺激するために、バーナンキは金利を実質ゼロまで引き下げ、商業銀行だけでなく、投資銀行、保険会社、自動車会社など他の金融機関にも融資と保障を提供しました。

ベン・バーナンキも、国際通貨基金(IMF)や20ヵ国(G20)などの国際組織とも協力して危機対策をしました。このような措置のおかげで、連邦準備制度理事会は金融政策の崩壊を防ぎ、経済の緩やかな回復に貢献することができました。しかし、これらの措置も税金によって信用のない金融機関を救済したことで批判にさらされました。

– 2014年にバーナンキの退任後、ジャネット・イエレン教授が後任に就きました。– この100年で初の女性就任です。イエレンは、米国経済が安定した成長をして失業率が減少するまで、ソフトで柔軟な金融政策の導入を続けました。イエレンもまた、金融の安定、規制、銀行システムの監視といった問題に大きな関心を寄せました。イエレンは、社会正義や機会均等を提唱し、その能力、経験、人間性を高く評価されました。

– 2018年にジャネット・イエレンが退任した後は、ドナルド・トランプ大統領が任命したジェローム・パウエルが就任しました。2020年、パウエルは、経済活動の急激な縮小、失業率の上昇、金融市場の下落を招いたコロナウィルスの大流行による前例のない危機に直面しました。パウエルの迅速な決断力で量的緩和政策(QE)の再開、実質ゼロに近い低金利、企業、州、地方政府並びに金融市場をサポートするための数々の貸付政策をはじめました。

2021年、パウエルは予防接種の促進、規制の解除、大規模な財政刺激策によるアメリカ経済の回復を目の当たりにしました。しかし、その後、インフレ率の上昇、不安定な労働市場、政治情勢リスクなどの新たな試練に直面して、連邦準備制度理事会の金融政策を引き締め(QT)へと移行させました。

スキャンダルと不審

成果や失敗に加え、何名かの連邦準備制度理事会議長は、当時、面白い事件やスキャンダルで知られています。

ウィリアム・マクチェズニー・マーティン (1951-1970)は、連邦準備制度理事会の議長を20年間務めただけでなく、記者会見でしばしば皮肉や辛辣なジョークを飛ばす人物としても知られています。ある時、マーティン議長はFRBを次のように表しました: "連邦準備制度理事会の仕事は、パーティーが盛り上がったところでパンチボウルを取り上げること"。

アーサー・バーンズ (1970-1978) は、原油危機時にインフレ率と失業率の管理という試練に直面しました。また、親友であるニクソン米大統領の再選を助けるために利下げ要請に応じたことで"ウォーターゲート事件" に関与したことが明らかとなりました。

ポール・ボルカー(1979-1987) は、葉巻愛好家、2.01メートルの高身長、服装選びの時間を節約するためにいつも同じスーツとネクタイといことで知られていました。 20%の利上げというインフレ抑制のための厳しい措置で不満が広がりました。これに怒った農民たちは、厳しい信用コストの引き下げ要求のためにボルカーの乗った車を襲撃するまでの事態となりました。

アラン・グリーンスパン (1987-2006)の複雑で独特な言い回しは、しばしば、"グリーンスピーク" と呼ばれました。グリーンスパンは、連邦準備理事会の政策に関する明確な予測やシグナルを避けるために曖昧でどちらともとれる表現を頻繁に使いました。有名な表現の一つに、 "私の言ったことが理解できれば、おそらく混乱するでしょう"というものがあります。

ベン・バーナンキ (2006-2014)は、 盗難にあった際、何者かが米国の中央銀行のトップの口座から$9,000を不正に引き出したと皮肉な発言をしました。

ジェローム・パウエル (2018年からのFRBの現議長) も自身の名前や写真を使った金銭詐欺の手口に利用され、いくつかのフェイクニュースの被害者にもなっています。

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